home > diary menu > 2015年 > 12月9日

路地裏の風景 〜その1〜


みなさん,お久しぶり。お元気ですか?

不惑おとーさんも,まあまあ元気にやってます。でも気がつけばもう2015年も年末。このdiaryも放置状態のまま約1年になろうとしてます。


たまに自分のサイトを見てみると,こんな状態でも忘れずに毎日30〜40人の方がこのサイトを見に来て下さっています。申し訳ない,申し訳ない,申し訳なさで胸が詰まります。

実際まだここに書きたいネタはいろいろあります。以前「書く」とお約束してそのままになってるネタもあります。「ぼちぼち書きます」とは言ったものの,何ぼ何でも放置しすぎやろ!

...ということでご無沙汰のお詫びも込め,何年も前から書きかけになってたネタ「DRINVING PSYCHOLOGY ドライヴィング・サイコロジー」,略してドラコロ,いや別に略さなくてもいいか,まあいいや,これをフォルダーから引っ張り出してきてこの年末に書き上げてしまうことにしました。しばらくお付き合い下さいませ。


さてさて。

おとーさんがガチの自動車競技から足を洗ってもう1年半になります。

デミ助を売却する頃にはまだ「後悔するかな...」とも思ってましたが,現在に至るまで後悔は全くなし。やはり完全に燃焼し尽したんでしょうね。


むしろ,あの競技前のイヤなプレッシャー...それは勝つ事への執着だったり,金銭的な心配だったり,恵まれたライバル達への嫉妬だったり,家族への後ろめたさだったり,そういう諸々のネガティブな感情から開放された安堵感を今でも感じます。ああ,もうオレは毎月必死で戦わなくてもいいんだ,と思うと今でもホッとします。

おとーさんの場合,そういったネガティブな感情,ヘンなプレッシャーは,長く走り続けベテランになればなるほど蓄積し,特に最後の数年はかなりの重さになってたと思います。そしてこいつらこそが,走る楽しみを浸食し,スポイルしてたな,とつくづく感じます。


今は身軽になりました。

ヘンなプレッシャーがなくなった分,クルマに乗る時もヘンに気負わずその日その時の気分でステアを握りスロットルを踏むことができます。もう運転してて自分の左サイドの車両感覚の甘さにイラつくこともないし,シフトする時の回転数合わせに必死になることもないし,エンジンや足回りのコンディションに過度に神経を尖らせることもない。


ジムカーナにせよレースにせよ競技に必死になってた頃は,自動車競技こそがクルマの楽しさを味わう最高の方法だと思い込んでました。

でも,今は本当にもう街乗りしかしてませんが,やっぱりクルマの運転は楽しい。むしろ競技のプレッシャーがなくなっただけ純粋にクルマの運転を楽しむことができるようになりました。


爽やかな初冬の青空の下,隣に嫁様を乗っけて遠方のアウトレットにお買い物に行く。これだけでも十分楽しい。

仕事帰りに30分ほど遠回りして,缶コーヒー片手に窓を全開にして冷たい夜風に吹かれる。これも楽しい。

普通の街乗りの中で,安全でスムースでカッコイイ,「究極の街乗り運転」を極めようというクエストを追求する。これもまた楽しい。


そこで改めて思うのは,こういう「走る楽しみ」ってどこから来るのかってこと。「人は何故走りたくなるのか」ってこと。

こういうことを考えてる時におとーさんがいつも思い出す風景があるんですよ。


・・・・・・


...あれはもう何年前になりますかね。まだおとーさんがいつも週末になると何時間もクルマの下に潜り込んで過ごしてた頃。

その日も確か日曜日で,時刻は昼下がりでしたかね。


リアブレーキドラムのお掃除
※いつものルーチン作業です(笑)。


いつものようにおとーさんが家のガレージでジャッキアップしたデミ助の下に潜り込んでゴソゴソやっているその前の路地で,近所のガキども,そうですね,下は2〜3歳ぐらい,上は小学校低学年ぐらい,それぐらいの子らが5〜6人でわいわい遊んでたんですよ。

ウチの家は住宅街の中にあり,家の前の路地はゆるい坂道になってます。滅多に車が通らないのを良いことに,ガキども路地を占領して,坂道の上から下まで自分達の乗り物で,つまりコマ付き自転車や三輪車,ソアラやセリカの格好したガラガラ車(笑)などで上がったり下りたり,わいわいやってました。

「ちっ!ガキども,うるせえなあ」

別段子供好きでもないおとーさんはそう思いつつも,まあ別に怒り散らすようなことでもない。知らん顔して作業に没頭します。まあ,ここまではいつもと変わらない休日午後の路地裏の風景。


しかしこの日,ふとおとーさんが気づくと,ガキども,なかなか面白いことをやり始めてました。

坂の上から下までがーっと勢い良く下って行く1台の三輪車。それを他の子らが坂の上で見守りながらイーチ,ニー,サン,シーと大声でタイムをカウントしている。「21秒!」とか「30秒!」とか言い合いながら,入れ替わり立ち替わりで坂を勢いよく下りて行く。


お,お前らダウンヒルのタイムトライアルやってんのかよ!?

そうです。特にモータースポーツに縁があるとも思えない近所のガキどもが全く「自然発生的に」ダウンヒル競技を楽しんでいる。


へえ,こういうことってあるんだな。

まあスキーにせよソリにせよカヌーにせよ,重力の力を借りて自然に動き出すようなこの手の乗り物には,洋の東西を問わず必ずダウンヒルの競技があるもんな。こんなどこにでもいるガキどもが,何のお手本もなくこんなことを始めるっていうことは,ダウンヒル競技っていうのは何か人類に共通した本能に直結するものなんだろう。

立ち上がって腰を伸ばし,しばしおとーさん,感心して見ておりました...が,いやいやこんなの見てる場合じゃなかった。作業に戻ろう(笑)。


しばらくリアドラムのスプリングと格闘した後,ドラムのネジを締め,外してたタイヤを取り付け,ジャッキアップしたデミ助を地上に降ろし,ホイールナットを締めて一息。あー疲れた。中腰の作業が身体に堪えるようになったなあ。

よっこらしょと腰を伸ばしながらまた目の前の路地で遊んでるガキどもを見て...


!!!


その時の衝撃をおとーさんは忘れません。

さっきまで直滑降のタイムトライアルをやってたガキども。

今度は,路地のそこここに大きな石とか,その辺にあった空の植木鉢とか,そういう障害物を置いて,それを縫って坂道を下っていく複雑なコースを作り,それでまた一人一人アタックして他の子がイーチ,ニー,サン,シーと大声でタイムをカウントしている。何とコースの一番最後には270度ターンまである。名阪Cコースですか,ここは(笑)。

そう,要するに今度は,


全く自然発生的にスラローム競技を始めちゃってる。


しかもガキどもすっごい楽しそうで,わーわー言いながら盛り上がってるし。

驚天動地だぜ。

人間という生き物には生来「スラローム本能」とでも言うべきものが宿っているのか...そうだ!確かにそうだよ!


・・・・・・


我々人間は,産まれた時には手足をバタつかせるぐらいの動きしかできません。それが4ヶ月ほどすると頸がすわり頭を起して周囲を見渡すことができるようになり,徐々に寝返りをうち,つかまり立ちをし,そして1歳前後で歩き出します。2歳にもなるとその辺をちょこまか走り回って目が離せなくなるのはみなさまご存知の通り。

ベビーベッドに寝かされたきり周囲の風景を眺めるぐらいしかできない時代には,我々の世界はベビーベッドの柵の中と,せいぜいそこから見渡せる子供部屋の中までです。その狭い空間が世界の全てです。

もちろん,母親に抱っこしてもらえば別の部屋にも行けますし,お買い物に行ったり祖父母の家に行ったり健診で病院へ行ったりもするでしょう。ただこの場合,こういった外の世界に自分から行って関わったわけではなく,あくまで母親の意思に基づいて受け身でしか関わっていませんから,まだまだ自分の世界にはなり得ません。


しかし我々が徐々に成長して起き上がり立ち上がり,自分自身が能動的に動くこと(移動すること)が出来るようになると,五感を通じ実感として外のいろいろな世界を知ることになります。我々は旺盛な好奇心を発揮して,いろいろな事物を見て,聞いて,触って,口に入れて味わって,実体験として自分の世界を拡げて行きます。

さらに成長して歩いたり走り回ったりできるようになると我々の世界は爆発的に拡がります。自分が「動く」ことで,これまで手の届かなかった物に手が届くようになり,これまで見えなかった物が見えるようになり,聞こえなかった音が聞こえるようになります。世界はどんどん拡がり,世界との関わりも深まって行きます。


立つんだ赤ちゃん
※赤ちゃんはいずれ自力で立ち上がり,五感を使って世界を拡げていきます。

小さい子供にとって「動く」ということは嬉しく,楽しく,興奮と驚きに満ちた素晴らしい体験のはずです。「動く」ことで我々は世界を知り,世界を発見し,世界を拡げ,世界の中に参加出来るようになるからです。小さい子供が飽くことなく動き回り,それだけでも楽しそうなのはこういうことなのでしょう。


ただ,成長するに伴って,生身の身体で体験できる世界や,歩いたり走ったりといった身体の動きと周囲の世界との単純な関わりには「慣れ」ができてくるでしょう。

ここへ来てこっちの方角をこういう風に見ればこういう風景が見えるだろう。あそこへ行って耳をそばだてればこんな音が聞こえるだろう。そこのローカを歩きながら上を見たらこんな風に見えるだろう...予測がつくようになってくると,最初の時ほどの興奮や驚きは無くなってくるでしょう。

もちろんこういった周囲の世界への「慣れ」こそが,我々がこの世界で落ち着いて生きて行くことのできる重要な基盤になっているのですが,今はそのことについて深くは触れません。また子供の成長にとって家族という他者の果たす役割も計り知れない大きさを持っていますが,それも今回のテーマからは外れます。


また,人間が自分の生身の身体だけで体験することができる世界には限りがあります。手足を精一杯伸ばし,目を見開き,耳をそばだて,歩いたり走ったりゴロゴロしたりして実体験として感じられる世界...それが我々の生身の世界の限界です。

そしてそこに慣れが生じます。世界はだんだん驚きや新鮮味を失い「当たり前の世界」「当然の世界」になってしまいます。当たり前のようにそこに拡がり,こちらの関わりに対して当たり前の反応を返してくる。そんな,安心だけどちょっとつまらない世界になって行きます。

そんな世界をあらためて「生身の世界」と呼ぶことにしましょう。


・・・・・・


くどいようですが,確認です。

「生身の世界」は,我々人間が自分の手足を伸ばし,動かし,五感を精いっぱい働かせて感じ取ることのできるすぐ身の回りの世界です。真っ白の状態で産まれてきて以来,日々の経験を積み重ねて作り上げて来た,最も原始的な世界の図式と言ってもいいでしょう。


立ち上がり,歩き回ったり走り回ったりしてそれなりの拡がりを持っているとは言っても人間が生身の身体で動き回れる範囲は高が知れてます。数十メートル,数百メートルぐらい先までは見ることができますが,何キロメートルも向こうを詳細に見ることのできる人間はいないでしょうし,何キロも先の話し声を聞くことのできる人間もいないでしょう。生身の世界には物理的な制約があります。

生身の世界の中では我々は手足を動かし,モノを触ったり,キョロキョロしたり,耳をそばだてたり,そういった自分の身体の動きと一対一対応で世界に関わっています。世界の方も常にそれに相応した反応を見せてくれるので,我々はその世界に安住していられる一方,慣れきってしまってちょっと退屈もしています。


そこに。

そこに車輪のついた簡単な乗り物,例えばソアラの格好をして上に座ることのできるプラスチックのクルマでもいいですし,三輪車でもいいでしょう,そういうものが現れたらどうなるか。

プラスチックのソアラにまたがり,両足で地面を一蹴り二蹴りすると,ソアラはごろごろごろごろと音を立て,たかが数秒間ですが自走します。坂道でやればもっと長い間,足で地面を蹴らなくても自走します。


自分自身が手足を動かさずに自分の身体が移動する。

自分は座ってるだけなのに周囲の風景が変ったり,聞こえる音が変ったりする。

これは明確に生身の世界とは異なります。

赤ん坊として産まれて以来,真っ白の状態から毎日毎日手足を動かして作り上げてきた自分の生身の世界がそこで,ちょっとだけ変化します。違う世界になります。「乗り物に乗った世界」になります。


毎日毎日見飽きた家のローカの風景も,乗り物に乗って走ることで変わります。

普段気づきもしなかったローカのちょっとしたうねりがとても面白かったり。

フローリングのちょっとした継ぎ目がすごくチャレンジングだったり。

下から見上げたテーブルの裏に誰かがなすり付けたハナクソが貼り付いていることを発見したり。

乗り物に乗ることによって世界が変わる。世界が新しい意味を持って目の前に現れてくる。


本当に産まれて初めて乗り物に乗る赤ちゃんなら怖がるかもしれません。慣れ親しんだ世界が変化することに本能的に不安や恐怖を覚えるからです。でもしばらくするうちにどの子も嬉々として乗り物を乗り回すようになります。

生身の世界が,乗り物に乗ることによって変化する。自分の生身の身体と周囲の世界との新しい関わり方が発生する。手足の届く範囲内とか,目耳の及ぶ範囲内とか,生身の世界の窮屈な物理的制約を超えることができるようになる。生身の世界の呪縛から解き放たれる。それは新鮮で刺激的で,生き物の本能を惹きつける「楽しい」体験なのです。


乗り物は世界を変える
※乗り物に乗ることで子供は全く新しい世界を発見していきます。


若いニホンザルが同じケージで飼われているイノシシの背中に乗って遊んでいる映像をニュースか何かで見たことがあります。

ニホンザルも,内容はヒトと多少異なるかもしれませんが,自分の手足と目耳鼻の届く範囲で,ヒトと同じように生身の世界を持っているはずです。

たぶん最初は偶然だったのでしょう。あるいは小ザルが親ザルの身体にしがみつくのを真似したか,とにかくイノシシの背中に初めて乗ったサルがいた。彼はイノシシの背中に乗って移動する世界を体験し,きっと感動したのでしょう。

彼が何度も何度も繰り返しイノシシに乗って遊んでいる姿を見て周りのヤツも真似します。そして同じように感動してイノシシに乗りまくります。楽しいんです,イノシシライド。まあイノシシはいい迷惑でしょうけどね(笑)。


乗り物に乗ることによって生身の世界が変わる。

生身の世界の退屈な呪縛から解放される。

何かに「乗った世界」に変わる。


小さい子供が,そして大人が,乗り物が好きな原理の一部がここにあるんじゃないかなと,おとーさんは思います。我々がクルマで「走る」,その楽しさの根底の一部がここにあるんじゃないかと思います。



路地裏の風景 〜その2〜」に続く



前のDiaryへ前のDiary | PAGE TOPへPAGE TOP | 次のDiaryへ次のDiary