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路地裏の風景 〜その2〜


路地裏の風景 〜その1〜」からの続きです。


しかし。

人間は飽きる動物です。おそらく乗り物に乗って単に移動するだけでは,これまたいずれ面白くなくなってきます。

最初は電車のように一方向に移動するだけの乗り物でも良いでしょう。車窓からの景色を眺めているだけでもそれなりに楽しめます。でも,いずれ新鮮味や刺激は薄れ,飽きてきます。


それは自分が受け身に「乗せられた」存在だからです。自分が主体的に世界に手を出し,世界からの反応を受け取っているわけではなく,電車が向かう方向に,そのスピードで移動するしかないので,よほど目新しい景色でも見えない限り,徐々に慣れて行ってしまいます。

ちょうど母親に抱っこされてるのにも似ていますね。

母親に抱っこしてもらえば,自分が動かずとも周囲の風景は変わっていきます。新しい世界と出会うこともできます。乗り物に乗っているのに近い体験と言えるかも知れません。

ただこの場合も,体験はあくまで受動的なものであって,抱っこしてくれてる人の意思に左右されます。いくら右へ行ってくれと主張しても,母親が言うことを聞いてくれるとは限りません。多少世界が変わったり拡がったりしても,自分自身の能動的な関わりが薄い限り,そこにはすぐに慣れが生じてきて面白くなくなってしまいます。


しかしそこで。

もし例のプラスチックのソアラにハンドルがついてたら。電動機能がついてたら。

つまり乗り物を「操作」することができれば...

世界はまた全く違った様相を見せます。


自分が手足を動かさなくても自分の身体が移動してくれる。しかもその動きを自在に操ることができる...

自分が手足を動かして見たり聞いたり触れることのできる範囲内にしかなかった世界が,乗り物に乗ることによってどんどん拡がって別の世界になって行く。そしてそれを自分の意思でコントロールできる。まさに自分の意思によって世界を変えていく,世界を拡げていくことができるわけです。こんなに面白いことが他にあるでしょうか。


乗り物に乗り,それを自分で操作する。

人はここでついに,生身の世界の限界を超えて「能動的に」世界を拡げ,どんどん新しい世界を発見していくことができるようになったわけです。


その人が成長するにつれ,いずれプラスチックのソアラは三輪車になり,三輪車はコマ付きの自転車になり,やがて自転車のコマがなくなり,しばらくするうち自転車は原動機付きになり,そして4輪のクルマにたどり着きます。人によってはもっと違う乗り物に乗って海の荒波を越えたり大空を飛んだりもするでしょう。

全ての乗り物は人間にとって新しい身体であり,生身の身体の物理的限界を超えさせてくれるものです。人は乗り物という新しい身体を纏うことによって,生身の身体では見えない,知り得ない新しい世界に積極的に乗り出して行きます。


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分りやすい例えを一つ。

想像してみて下さい。街角に立つあなたの目の前には曲がり角があります。曲がり角の向こうは今は見えません。

あなたが歩いて角を曲がって見えてくる世界。

小走りに走って曲がって見えてくる世界。

三輪車でキコキコ曲がって見えてくる世界。

自転車で曲がって見えてくる世界。

バイクで曲がって見えてくる世界。

自動車で曲がって見えてくる世界。


これらの世界は物理的には全く同じ世界,ですよね。

でもその世界に出会う時に生身なのか,どんな乗り物に乗ってるのかによって,あなたにとっての世界の意味は異なってきますよね。


例えば,もしその曲がったところに赤いパイロンがポンと置いてあったら。


パイロンとの出会い
※乗り物に乗ることによって目の前の世界の意味が変わってきます。


歩いて曲がったり,走って曲がったりしてる場合には,その存在にすら気づかないかもしれません。

三輪車だったら「ジャマだなあ」と思うかもしれませんし,パイロンをじっくり観察してそこにテントウ虫が止っていることに気づき,ちょっとホッコリするかもしれません。パイロンの耳のところにマジックで「TSCO」とか書いてあったら(笑),何の略か悩むかもしれません。

自転車やバイクだったら「ジャマだなあ」と思いつつも,パイロンの横をひらりとすり抜ける時に奇妙な爽快感を感じるかもしれません。

自動車で勢いよく曲がった目の前にパイロンがあったら...避けるか轢くか迷った挙句,縁石にホイールをぶつけて泣くかもしれません。あるいは人によってはサイドブレーキを引きたくなるかもしれません(笑)。


曲がり角を曲がった向こうは,どんな曲がり方をしようが物理的にはみな同じ世界でしょうが,乗り物に乗ってることで世界の意味は大きく変わり,あなたは違う世界と出会うことになるわけです。

目の前に現れたパイロンも,単なる赤いプラスチックの固まりであることには変わりがないはずですが,その人がどういう出会い方をするかによって,持つ意味が異なってきます。単なる邪魔な物体に過ぎないのか,何らかのチャレンジを誘発するすごく魅力的な物体なのか。


乗り物に乗ることで目の前の世界が変わってくる。世界の意味が変わってくる。

そして乗り物を操作することによって,人間は目の前の世界との出会い方をも操作し,より積極的に世界と関わり,新しい世界を発見していきます。

乗り物はあなたと共にあり,あなたの身体になり,あなたの世界を積極的に変えるものなのです。


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冒頭でご紹介した路地裏の風景に戻りましょう。

最初,子供達は路地の坂道を真っ直ぐに走り降りて遊んでいました。そこにおそらく子供達の中の一人が何かのスポーツを真似て「タイムを測る」ということを始めました。小学校に入ると50メートル走のタイムを測ったりするでしょうからその影響もあるかもしれません。いずれにせよこれだけでも大発見です。

子供達にとっては,いつも遊び慣れた路地の坂道が,「乗り物に乗って直滑降でタイムを測る」という行為に入った途端,全く違う世界に一変したと思います。

だって。

この坂道の勾配をこんなに意識したことがあったでしょうか。
この坂道の舗装をこんなにデコボコに感じたことがあったでしょうか。
この坂道の長さをこんなに長く,あるいは短く感じたことがあったでしょうか。
この坂道の途中にあるマンホールの蓋を,こんなにジャマに感じたことがあったでしょうか。

毎日毎日遊び慣れた坂道が全く違う坂道に変貌する。それを子供達は実感して,その楽しさに夢中になったのでしょう。

しかし。

子供達の中の誰かが気づいてしまったのです。

その坂道に「障害物」を置いて,乗り物をもっと「操作する」と,もっともっと面白いということに。


「スラローム本能」というとちょっと違うかもしれません。本能なのはスラロームそのものより,「乗り物に乗って,積極的に操作をしたい」ということでしょうから。あるいはそういう面白さを追求したいということでしょうから。「操作本能」と言った方が当ってるでしょうか。

いずれにせよ子供達は遊び慣れた坂道のあちこちにわざと障害物を置いてこれを避けながら下って行くコースを作り,途中には270度ターンまで設定してコースを複雑にしました。

コースを複雑にすることで得られるのは,言うまでもなく乗り物を「操作する」必要性です。これによって,直滑降でも結構面白かった遊びがさらにさらに面白くなったからこそ,彼らは盛り上がったわけです。


乗り物に乗って坂道を真っ直ぐ下っていくだけは見つけられない世界が,コースに障害物を置いてコースを複雑にすることでたくさん見つかる。

その中には乗り物そのものについての発見も含まれるかもしれません。

乗り物が操作によって見せる様々な反応は,これ自体が新しい世界との出会いです。普段平地で乗り慣れた自分の乗り物が,坂道でハンドルを切ることによって思いも寄らぬ動きを見せる。普段はゆっくりゆっくり乗っている乗り物がスピードを出した時には全く違う反応を返してくる。全てが新しい発見です。

また彼らは,コースが複雑になればなるほど,スピードの乗る自転車よりも三輪車やプラスチックのソアラの方が有利になる,なんてことを考えてコースを設定したわけではないでしょう。でもやってみたら,直滑降では乗り物によってタイム差があり過ぎて勝負にならなかったものが,意外や意外,タイム伯仲の熱戦になり「めっちゃ面白いやん!」となったのかもしれません。これも新しい世界です。


乗り物に乗ることで,生身の世界の呪縛から開放される。

そしてその乗り物を操作をすることで,より積極的に世界を変えて行くことができる。

そしてさらにその「操作の量」を増やして行くと,もっともっと違う世界に出会っていくことができる。

「めっちゃ面白いやん!」

これが「スラローム本能」「操作本能」の正体なのかな,乗り物に乗って感じる楽しさの大きな一部分なのかな,おとーさんはそう考えました。


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「自動運転車」の開発がニュースを賑わすようになってきました。

超高齢化社会が現実になり,実際に高齢の方の危なっかしい運転をそこここで見かけるようになってきた今,運転者に代わって安全に運転をしてくれる「自動」車は歓迎されるべきものでしょう。

本来は面白いはずの「クルマの運転」に興味を持てず,クルマを単なる移動の手段としか思わない人も世の中にはたくさんいます。そういう人達にとっても,自分が運転しないでも目的地まで連れて行ってくれる「自動」車は便利なものでしょう。

クルマを運転するという「コト」を楽しめない人にとってクルマは単なる「モノ」に過ぎず,運転という行動は,しなくて済めばそれに越したことはない余計なものに成り下がってしまっています。

一方でメーカーによっては「Be A Driver」なんてCMをやっているところもあります。「運転する人でいよう」「さあ運転しよう」,無粋な直訳ですが無理に日本語にするとそんな意味でしょうか。心に響く言葉ですよね。

今この文章を読んで下さっている方はきっと「運転を楽しめる人」だと思います。言われなくても「Driver」な人だと思います。そこらに転がっている赤い円錐状のプラスチックの塊が,クルマに乗ることによって,人生を左右するような存在に変わる,そんな瞬間を知っている人だと思います。


みなさんならきっと同意してくれるでしょう。どんなに自動運転車が発展しようとも,乗り物を操作する楽しみはなくなりません。おそらく自分で運転するクルマは(少数派になっても)いつまでも残るでしょうし,自動運転車にも手動運転モードは残るでしょう。人間が人間である限り。


自分の手足のように動くクルマは第二の身体
※自分の手足のように動いてくれるクルマは第二の身体。



長くなりました。最後にもう一度まとめましょう。

我々人間は赤ちゃんの時から手足を動かしたり五感を働かせたりして周囲の世界と触れあってきています。これを仮に「生身の世界」と呼びます。この生身の世界は人間の認識の基盤を作っていますが,自分の生身の身体をベースにしているので,どうしても物理的にいろいろな制約のあるちょっと窮屈で退屈な世界です。

ところが乗り物に乗ることによって,人間は生身の世界の限界を超えた新たな世界との関わり方を手にします。乗り物に乗ることによって目の前の世界はこれまでと違った意味を持つようになります。そしてこの乗り物をさらに自分で操作することによって,人間は積極的に新しい世界を探索し切り開いていくことができます。

人間が乗りものに乗って感じる喜びの源泉はここにあり,だからこそ「運転する」ことはこの上なく楽しいことなのです。



だらだら書いているうちにもう2015年もあと数時間になってしまいました。

来年もバンド活動の合間にぼちぼちクルマに関して思うところを書いていきたいと思います。もしよろしければお付き合い下さいませ。

普段の日常生活なんかの雑記はおとーさんのバンドのblog「九九五式音楽戦車」に書いていきますので,こちらもぜひ時々のぞいてみて下さいませ。

それでは,みなさま,良いお年を!



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