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ジムカーナは世界を巡る 〜ジムカーナの語源をめぐる旅〜


「ジムカーナ」という言葉を初めて知ったのは,今は引退されてしまった「名人」森田勝也選手の「クルマ自在極限テクニック(山海堂)」という本を通じてでした。

副題に「Let's Try ジムカーナ」とあり,この本を手にしてジムカーナを始めた有名全日本選手も多いという稀代の入門書であり名著です。

おとーさんの手元にあるのは昭和63(1988)年発行の第6刷。1988年というと日本はバブル成長の真っ只中,中嶋悟のF1参戦や鈴鹿でのF1GP開催が2年目となり,セナプロやマクラーレンホンダの大活躍で日本に一大F1ブームが巻き起こりつつある時代でした。

当時おとーさんはまだ24歳。初代インテに無限のショックやエンドレスのパッドを組み,ネオバの前身であるグローバというタイヤを履いて夜な夜な近所の峠に出撃しておりました。そして,もっと上手くなりたい,もっと速くなりたいという想いで手に取ったのがこの本でした。

「ジムカーナ? 何じゃそりゃ」

と思いましたね。最初は。

しかし本のページをめくってみるといきなり「180°ターン(小)」とか「360°ターン」とか「8の字ターン」とかの連続写真が載ってる。

「うわ,すげえ! できるのかこんなことが普通のクルマで!」

ちょうど当時いすずのジェミニが2台ぴったり寄り添いながらヨーロッパの街中でアクロバティックな走行を見せるカッコイイCMが有名でした(今でもちょっと探せばYouTubeで見られますよ)。おとーさんの頭の中ではこの本に書いてあるアクロバティックなターン技がジェミニのCMにピピっと結びつき,

「うおおおお! 俺もこんなのやりてえー! ジムカーナやりてえー!」

という結論に達したわけです(単純)。


ところが...

深夜の山の中,人気のない駐車場で本のマネをしてサイドブレーキを引けども引けども初代インテのリアはビクともせず。サイドターンなんてできやしません。今思えばステアの切り込みも足りないし,前荷重も足りないし,デフも入ってないし,そもそもリアのシューは純正の上,何度も峠でフェードさせてスカスカの状態。そりゃ,うまく行かないわけだが。

しかも大阪近辺ではどこで実際のジムカーナをやってるんだか,この本にはどこにも書いてない。当時はネットなんて便利なモノはないし(パソ通がやっとあった程度),出入りしてた京都の小さいショップは山中仕様の直管車ばかりでジムカーナのジの字も話題に出ない。全くの素人が実際のジムカーナに触れようと思うと,たまたま近所でジムカーナをやってるとか,個人的なコネでもない限りは,とりあえずJAF経由でライセンスをとって公認クラブに所属して,という面倒な手順がどうしても必要でした。

当時バイトやバンド活動で多忙な(決して「学業で多忙」ではない)大学生だったおとーさん,「いつかジムカーナやるぞ」と思いつつも,ドタバタしてる間に時間はどんどん経ってしまい,結局おとーさんが初めてナマのジムカーナに触れたのはこの3-4年も後になるのでした。そう,忘れもしない姫セン駐車場での衝撃の出会い。まあ,これはもうこれまで何度も書いてることなのでそちらを参照して下され(→おとーさんが愛したクルマ達その3 の項)。


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「ジムカーナ(gymkhana)」という言葉,最初目にした時は「何じゃそりゃ」という感じで全く意味不明でしたが,「ジム」という部分は何となく「体操,体育」を意味する"gym"や"gymnasium"という英語に関連してることは想像がつきました。

実際,辞書で調べると"gymkhana"は「野外運動会,野外競技会,あるいはその会場(主にイギリス英語)」とあります。クルマの運動会? あるいは,クルマを使った体操競技? ...何かピンと来ませんが,まあ,そんな風な意味を持たせた命名なんだろうと最近まで思ってました。

ところが昨年実戦を退いてから,もっとジムカーナについて深く知りたい考えたいと思っていろいろ調べてるうちに意外な事実を知りました。

ジムカーナという言葉は確かに"gymkhana"という英単語にはなっていますが,欧米の言葉が起源ではなく「インドの言葉が語源である」ということです。そしてそこにはインドやアジアの国々をめぐる悲しい歴史が秘められていることも...


日本語「ジムカーナ」をwikiで調べるとこうあります(→ウィキペディア「ジムカーナ」)。

以下引用

ジムカーナ(英語: gymkhana)とは、モータースポーツや馬術における競技の一つ。
gymkhana という語はヒンドゥスターニー語のジムカーナー(jimkhānā:字義は「球の家」)に由来し、元々はラケッツ(スカッシュに似た屋内球技)の競技場を表した。それが転じて「(技術を競う)競技会を行う場所」という意味になり、現在のインドではもっぱら体育館を表す。 それが gymnastics (「体操・運動」)等の単語の影響を受けつつ英語に取り入れられ、イギリス英語では「馬術競技会」、アメリカ英語では「(スポーツカー等による)運転技術競技会」(イギリス英語のオートクロス(autocross)にほぼ相当するが、よりテクニカルとされる)をそれぞれ意味するようになった。

以上引用(一部文字コードの関係で削除しています)


ヒンドゥスターニー語というのは一般にインドの公用語であるヒンドゥー語と隣国パキスタンの公用語であるウルドゥー語の総称です。このwikiを読むと,元々英語の"gymkhana"に相当する単語"jimkhānā"がヒンドゥスターニー語に存在したようにとれますが,実際にはそうではありません。この単語は英単語の"gymkhana"ができてから後に,それをヒンドゥスターニー語でそう表記するようになっただけの模様。

英語のwikiを見ると"gymkhana"の語源になっているのは,ヒンドゥスターニー語で「球(ボール)」を意味する"gend"と「家,住居」を意味する"khānā"との合成語である"gend-khānā"という単語であり,実際に近世インドで「ラケッツ」というスカッシュのような屋内競技をする場であった施設をこう呼んでいたそうです。すなわち日本語wikiにある「球の家」というのは本当はこの"gendkhānā"のことをいうようですね。

ではこの「球の家」"gendkhānā"がいかにしてジムカーナ"gymkhana"になったか。


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歴史に詳しい人には文字通り釈迦に説法ですが...インドは世界4大文明の一つインダス文明に端を発する,非常に長くオリジナルな歴史を持っています。有名なハラッパーやモヘンジョ=ダロといった古代遺跡は紀元前25〜30世紀のものと言われ,日本などと比べるとはるかに太古から多くの人が都市社会を形成して暮らしていたことが分かります。

しかし人の世の常,インダス文明もその後のガンジス文明も古代インドの諸王朝も南北インドの諸王朝も,侵略や征服といった歴史が繰り返されながら栄枯盛衰を積み重ね,時は近代16世紀のムガール帝国へとたどり着きます。

そして,ムガール帝国3代アクバル帝がヒンドゥー教とイスラム教をうまく融和させて政治的な安定を導き,5代シャー・ジャハーン帝がタージマハールを建築,インド=イスラム文化が大輪の花を咲かせている17世紀,新たな侵略者が遠く海を渡ってやってきます。

それが大英帝国,つまりイギリスです。


当初は造船能力に長けるオランダがインドとの交易でも一歩先んじていましたが,数回にわたる英蘭戦争(要するに英国とオランダの戦争)の結果,徐々にオランダの国力は衰退し英国がこれを凌駕するようになりました。また18世紀半ばには有名なプラッシーの戦いにおいてフランスの東インド会社を退け,ここに英国のインド交易権独占が完成しました。

再び勃発したヒンドゥー教とイスラム教の対立をうまくさばけずムガール帝国は既に没落。当時インド各地はてんでばらばらの豪族支配に戻っていましたから,海を渡ってやって来る近代国家に対して太刀打ちはできません。結局インド各地の勢力が個別に撃破され,英国の東インド会社が19世紀初頭にはインド全土の植民地化を成し遂げてしまいました。

英国はインドの民から重税を徴収し,農園を作ってアヘンを収穫し,労役を課して鉄道をひき,そして「英語」という外国語の使用を強いました。インドの各地に英国人が「支配者」として赴任し,インドの民に英国の文化を押し付けました。


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戦争にせよ植民地支配にせよ,そこには多くの血と涙が流され,想像を絶する苦悩の,想像を絶する量の累積が,全くの無言のうちに葬り去られています。でもそれがホモ=サピエンスという動物の歴史であり,私たちの先祖伝来の物語でもあるわけです。そしてまた文化と文化のぶつかり合いは,大量の悲劇だけでなく価値ある新しいモノも生み出します。

ずいぶんと前振りが大層になりましたが,おそらく"gendkhānā"から"gymkhana"が生じたのもこの頃と思われます。


インドには古くから独特のスポーツが伝わっており,当時のインドにも,現代のバドミントンに似た,球に水鳥の羽などを着けたシャトル風のものを打ち合うインドアのスポーツがあったようです。特にプーナという街で行なわれていたものが有名で,このスポーツ自体も「プーナ」と呼ばれていたそうです。そしてこのプーナが19世紀半ばに本国イギリスに持ち帰られ,バドミントンという土地で盛んになったものがバドミントンの起源だと言われています。

何故インドアなのかという理由については,英語版のwikiでは「インドの気候的な理由による」となっています。暑くて外ではやってらんねーよ,ってことですかね。


当時のヨーロッパには既にラケットと球を使ったスポーツであるテニスが確立していました。ただテニスを楽しむためにはかなりの広さを持ったコートが必要であり,あくまでお金持ちの娯楽スポーツという位置づけでした。一方で庶民にとっては,狭い場所でもできる「ラケッツ」といういわゆる壁打ちテニスや,ラケットではなく素手やグローブで球を打つ「ファイブス(5本指の意)」などが身近なスポーツでした。

このラケッツ(rackets)は英語版のwikiでは元々,18世紀の英国において牢獄の中で囚人が始めたものとされていますが,起源については諸説があります。いずれにせよ最初は牢獄の壁のような高い壁に向かってラケットで球を打ち合っていたようですが,次第に現代のスカッシュのような屋内で行なうスポーツになっていったようで,19世紀には盛んにラケット・ホールという小さい体育館のような専用の建物が建てられるようになりました。そして当然このラケット・ホールは,当時英国の支配下にあったインドでもあちこち造られたことでしょう。

先述のインド伝来のプーナと英国人のラケッツ,いずれもインドアで行なうスポーツです。おそらく同じ場所で行なわれることもあったでしょう。このあたり日本語と英語の範囲ではどこにも記載がなかったのでおとーさんの推測に過ぎませんが,この頃プーナをやったりラケッツをやったりする建物をまとめて"gendkhānā"球の家と呼ぶようになったのではないでしょうか。


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植民地であるインドに赴任はしてきたものの,毎日毎日決まりきったつまらないお役所仕事ばかり。外はクソ暑いし,超イナカだし,嫁さん子供は退屈がって怒り出すし,もーどうしよかなー...なんていう英国のサラリーマン軍人さん。

とりあえず現地人を使って軍事施設の敷地内にもラケット・ホールを作ってはみたものの,嫁さん子供は「はぁ? おっさん勝手にラケッツやってれば?」みたいな反応(汗)。

仕方ないから知恵を絞ってこの「球の家」の中で運動会みたいな色々なオリジナル競技やっちゃおう。玉ころがしとか借り物競争とか。んで,ついでにその横の空き地で,ポニーみたいな小さい馬でもできる技術的に簡単な障害物競技やっちゃおう。地面に立てた杭をすり抜けたり,ぐるっと回ったり。これでどーだ。これなら嫁さん子供も楽しめるだろう。

よーし! 今度からこの「球の家(gend-khana)」は「運動の家(gym-khana)」と呼んでやろう。ついでにこの運動会そのものも,この新しい馬術の障害物競技も"gymkhana"と呼んでやろう。おお,語呂もいいしなかなかうまいネーミングだ。俺センスあるなぁ...

...wikiからソースとしてリンクされている1911年版のエンサイクロペディアをおとーさんの乏しい英語力で読むと,おとーさんにはこんな物語が浮かんできます。

※ Chisholm, Hugh, ed (1911). "Gymkhana". Encyclopaedia Britannica (11th ed.). Cambridge University Press.


まあ,いささかおとーさんの創作が混じってますが,実際のところ,19世紀のインド各地に点在する軍事施設でヒマを持て余した英国軍人が嫁さん子供のご機嫌取りを兼ねて開いた種々雑多な競技によるレクリエーション的な運動会や,技術的に簡単な馬術の障害競技を,現地の言葉である"gendkhānā"に「運動の」という意味の"gym-"をひっつけて"gymkhana"と呼ぶようになったようです。

このように"gymkhana"という言葉の語源はインドの"gendkhānā"であり,これに悲しい植民地支配の歴史と,英国から赴任したサラリーマン軍人と,その嫁と子供の退屈とが合わさり,従来の「騎士道」に基づく堅苦しいものとは違うお手軽な馬術競技として結実したわけです。


因みに現代のインドにも"gymkhana"という言葉は残っており,体育館などの運動施設や,会員制の高級スポーツクラブなどを"gymkhana"と呼びます(→有名なクラブである"DELHI GYMKHANA CLUB"の公式サイト)。


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さて19世紀に植民地インドの軍事施設内で生まれた新しい馬術競技である"gymkhana"は英国本国に逆輸入され,馬術のタイムトライアル競技として発展しました。そしてこのコンセプトは20世紀初頭,ちょうど黎明期にあったモータースポーツにも応用されました。すなわち,簡単な障害物を組み合わせて複雑な一定のコースを設定し,そこを1台ずつ走ってタイムを競う,馬術のジムカーナと同じようなモータースポーツ競技です。

当時既にレースやラリーは始まっていましたが,安全性のかけらもなく人が死にまくってました。でもこのジムカーナならば安全です。ぶつかってクルマは壊れても人はまず死にません。サーキットまで行かなくってもそのへんの空き地や駐車場でできます。

第二次大戦前のヨーロッパでクルマのジムカーナがどのくらいメジャーだったかは残念ながら詳しい資料がなくて分かりません。ただ英国ではタイムトライアル競技が結構盛んだったようで,有名なポール・フレール翁の書籍(「いつもクルマがいた」二玄社)でも,戦前のHRG社のクルマに触れた部分で「(このクルマは)英国独特のトライアル競技で特に強かっただけでなく,1937年と39年にはルマンに出場して完走さえしていた」という記載があり,これがジムカーナに相当するのではないかと思われます。


いつ米国にジムカーナが渡ったのかも資料がありません。米国でも20世紀に入りフォード社がガソリン自動車の大量生産に成功してから,クルマは一般人でも手の届くモノとなり,凄まじい勢いでモータリゼーションが拡大しました。既に1911年にはインディ500が開催されています。第二次大戦前にはナチスの影響で多くの技術者が否応なく大西洋を渡りましたし,もともと連合国の中では人の行き来は比較的自由でしたから,おそらく20世紀前半には米国でもクルマ好きの連中の間でジムカーナが行なわれていたのではないかと思います。

第二次大戦前の日本にジムカーナが入ってきていたかどうかも分かりません。ただ日本の本格的なモータリゼーションの到来は戦後になりますので,戦前にジムカーナが紹介されていたとしても極めて限定的なものであったでしょう。


そしていよいよ戦後になり,日本国内でもどんどん自動車が生産されるようになり,庶民もクルマに乗ることができるようになりました。そこにジムカーナを持ち込んだのは進駐軍である米軍であるという説が有力です。確かに米軍基地のジムカーナは最近までやってましたよね。

皮肉な話ですね。

インドが英国に植民地支配されていた19世紀から20世紀にかけて,東南アジアの国々は尽く列強の植民地にされてしまい,清国(中国)ですらそれを逃れることはできませんでした。そして当然ながら日本にも列強の魔の手は伸びて来ました。

確かに日本は黒船騒動からわずか15年でいち早くサムライ階級が明治維新という革命を起こし近代国家に脱皮することで,アジアで唯一この列強の植民地支配を(一応)免れました。

しかしこの明治維新はあくまでも軍人であるサムライ階級の起こした革命であって,本当の意味の市民革命ではありません。そのため,その後の民主主義はいびつな形でしか育たず,列強のマネをして周辺諸国の植民地支配に乗り出した挙句,世界を相手に大それた戦争を起こし,結局,コテンパンに負けて連合国の支配下に置かれるということになってしまいました。ここにも侵略や征服といった人類の栄枯盛衰の歴史が繰り返されているんですね。


そしてジムカーナは太平洋を渡り支配者の手によって日本にもたらされました。

たぶん19世紀にインドで起こったことと同じようなことが起こっていたのではないでしょうか。例えば...ミシガン州生まれの若い将校さん,日本の基地に単身赴任してきたけど狭いし蒸し暑いし雨よく降るし退屈だし,よーし!今度の日曜日は近所の奴ら集めて基地の駐車場でジムカーナ大会でもしちゃおうかな...なんてね。

そしてこの狭い国土と「技術」好きの国民性にマッチしたモータースポーツは瞬く間に日本全土に広がりました。

英国支配下のインドで馬術競技として生まれたジムカーナは,支配者の手でヨーロッパに逆輸入されて自動車の競技となり,モータリゼーションの風に乗って大西洋を渡り,そして今度は太平洋を渡って米国占領下の日本に伝わりました。

インドから日本へ,地球をぐるっと3/4周ほど回り,そして侵略や征服といった人類の悲しい歴史をまたぐるっと巡って,やって来たんですね。

ジムカーナは巡る。 パイロンを 世界を 巡る。

今は平和なジムカーナですが,そこには人類の悲しい歴史が凝集されているわけです。


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さあ,みなさんも今度からジムカーナで走る時には,有史以前から連綿と伝わる人類の侵略と征服と血と涙と嫁さん子供の退屈の歴史に思いを馳せながら走りましょう!

っつーか,そんなこと考えてたら走れねえっつーの!(笑)





※今回の記事を書くに当って,なるべく資料で裏づけをとるように心がけましたが,歴史的な事ゆえなかなか資料がなく,またおとーさんの語学力では古い英語は理解困難で,やむを得ずおとーさんの推測と想像で話を補っている部分があります。今後も少しずつ資料を集め,読み込んで行きたいと思ってます。

また,モータースポーツ,特にジムカーナの歴史に関して「こんな資料があるよ」という方はご教示いただければ幸いです。


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