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南の島へ行こう 〜その2〜


細い小道をそろそろ走ります。看板には「滝まで0.3km」と書いてありましたが,なかなかどうして300mぐらいでは着きません。本当にこの道で良かったのかなと不安になってきた頃に駐車場が見えてきます。

入り口の建物は,パンフレットには「スペイン風」とありますが,そう言われてもどこがスペイン風なのかよく分からない建物。しかも駐車場には小さいブタさんがうようよ群れていて,人が来ると寄って来ます。これまたパンフレットには「野生のブタ」と書いてありますが...うーん,餌付けされてるように見えるけどなあ。



※ブタさんがお出迎え


そこそこの値段の入場料を払って中に入ると,そこには「昭和」を感じさせる,ひなびた,というよりも脱力系の(笑)小さな遊園地があり,案内のオジサンが「はーい,あなたたちニッポンジンですか?」とガイジン訛りの日本語で話しかけてきます。

一応巡回ルートのようなものがあり,まずは小さいロープウェイに乗って滝を見てきなさい,横井ケーブ(潜伏場所のレプリカ)はこっち,もう一つの滝はこっち,最後にここに戻って来て遊んでオミヤゲ買って帰りなさい,みたいな案内を受けます。


4人乗りの小さいロープウェイは「ミクロネシアで唯一のケーブルカー」とありますが,狭くて中は蒸し風呂状態。天井からウチワが吊り下げてあり,実際これでパタパタしてないととてもやってられません。

幸い乗車時間は5分もあるかないかで,すぐにタロフォフォの滝の脇に着きます。周囲は溶岩台地で草原〜潅木が広がる平原ですが,このあたりは川の流れが台地を削って掘り込んだような地形になっており,川の周囲だけがうっそうとしたジャングルになっています。


滝は,上からどーっと落ちる滝,というよりも火山岩の段々の上を階段状に水が滑り下りるような感じの滝です。周囲のジャングル風景と妙にマッチしていてなかなか風情があります。滝つぼで水遊びもできるそうですが,あまりキレイな水ではないし,タオルとか水着なんて持って来てないので遠慮しておきます。




※後に小さく見えるのがロープウェイ


滝をぐるっと回ってグラグラ揺れる吊り橋を渡り,いよいよ横井ケーブに向かいます。小さい林業用のトロッコみたいな乗り物もあるのですが,どう見ても休業中。木立の中の小道を5分ほどてくてく歩きます。

一応整地されてるのでジャングルというほどの木立ではありませんが,それでも蒸し暑さはまさに熱帯そのもの。しばらく歩くとじっとり汗が出てきます。ただ気温は30℃ちょっとなので,日本の夏のジリジリと照りつける気が遠くなりそうな暑さよりはマシです。




見えてきたのは小さな小屋のような休憩所。この建物の中に入口があるのかと思いきや,ここには資料が掲示してあるだけ。見ると小屋の横の地面に人が一人やっと入れるぐらいの穴ぼこがあり,竹を編んだ簡単な蓋があります。これか。こんな小さな穴か。

横井さんが実際に潜伏していた場所はもっと奥の私有地にあり,これはあくまでレプリカ。実物はこの小さな縦穴からすぐに横に大きな横穴が掘ってあり,中は3畳〜4畳半ほどの広さがあってまさに「Yokoi Cave(洞窟)」になっていたようです。



※上から見るとこんな簡素な穴ぼこ


中には寝る場所と簡単な火所,棚,そして入り口近くにはトイレもあり,それなりの居住性が確保されてます。椰子の実から油を抽出し,ちゃんと灯りを点すこともできました。「見つかれば殺される」と思っていたため,草や枯葉を使って入り口の蓋は入念にカモフラージュされていたそうです。



※こんな模式図が掲示してありました

潜伏当初は何人も仲間がいたものの病気や自然の猛威で次々に亡くなり,残るはたった一人。昭和47年に見つけられるまで結局27年間もずっとこのジャングルの中。一人で何を思い,何を求め,何を恐れ,何のために毎日を生きたのか。27年間だよ,27年間。

よく「戦争が終わったことを知らされてなかった」と言われてるけどこれは間違い。終戦後の早い時期に現地の新聞や投降を呼びかける文書でポツダム宣言のことは知っていたそう。ただそれでも本当に戦争が終わったのかは半信半疑で,何よりも敵に捕まって捕虜になることが最も恥ずかしいことという軍国教育のため投降することもできず,日々の生活の痕跡を慎重に消しながらただひたすら隠れ潜んでいたらしい。

「一人になってからはもう日本に帰ることは諦めていた」「それでもいつか死ぬまでは生きていようと思った」という彼の言葉は,現代の死に急ぐ日本人にとって本当に貴重だと思う。



※発見当時の報道や生活用品など

参照 →


横井さんが「帰国」した2年ほど後にフィリピンのルバング島で,同じように終戦後もずっとジャングル内に潜伏していた小野田寛郎さん(→wiki)が発見されました。小野田さんは仲間とともに米軍基地を襲ったりフィリピン警察と何度も交戦したりし,仲間が次々に倒れついに一人になってからも戦い続けていたといいます。

彼もラジオなどで大戦後の世界情勢を知っていたものの,大日本帝国はどこかに逃れて亡命政府を維持しているはず,今の日本はニセ政権だ,と信じていました。そして上官からの「絶対に玉砕はするな。必ず迎えに行くから生きて任務を遂行せよ。」という命を忠実に守っていたわけです。

周囲は敵だらけのジャングルでたった一人。それでも「生きなければ」という思い...きっと壮絶な葛藤の年月だったでしょう。


終戦後もずっと南国のジャングルの中で潜伏したり戦い続けたりした日本兵の数は膨大だったといいます。横井さんと小野田さんは日本へ帰ってこられましたが,大多数の人はそのまま異国の地で斃れました。彼らはみな最期の瞬間,何を思ったでしょう。

自分なら何を思っただろうと想像します。

横井さんは洋服の仕立て屋さん,小野田さんは電気に詳しかった。彼らにはそういう得意分野があったため,これがジャングルでのサバイバルに大いに役に立ったそうです。おとーさんなんか大した技術はないからなあ...身体も強くはないし,きっと早々にくたばってしまったでしょうね。最期に思うことは...嫁さん子供達でしょうね。父ちゃんはここでくたばってしまうけど精一杯がんばったよ,お前らも何とかがんばって生きて行けよ,と...


しかしその時もう,その不惑家の嫁さん子供達は,いつものごとくおとーさんなんか放っておいて,「暑いわ〜」「何やしょうもない穴やなあ」などとバチ当りなことを口にしながらとっとと帰り道についています。

平和な時代に生まれて良かったな,とつづく思います。しかしこの平和もいつまで続くかなんて分かりません。「戦争」というものがいかに人々の人生を変えてしまうか,それは過去の戦争に向き合わなければ分かりません。



※少し上流にあるもう一つの滝


少し上流にあるもう一つの滝を見てから再度ロープウェイに乗り,出発地点の小さな遊園地に戻ります。嫁さん子供たちが休憩している間に遊園地をぶらっと一回り散策します。日曜日だからでしょうか,観光客が少ないからでしょうか,小さなチンチン電車もゴーカートも全く営業している気配はありません。

と,その時,奇妙な看板に気がつきました。



「愛の園」? 何じゃそら。

何となく興味をそそられて矢印の方向に進みますと「19歳以下入園禁止」という看板と同時にこんな立派なゲートが。


中は小さな庭園になっており,南国のお花が咲き乱れる中,そこここに真っ白な石像が安置してあります。しかしその石像が...






※この先,エロ画像あり注意(いちおうモザイクかけてます)
















こんなのや,



こんなのだったり,

はてまた


こんなアクロバットだったり(こんな恰好できねえよ!)。

こんな石像が園内にいっぱいひしめいてる。中には有名なトルソーをもじったものやミロのヴィーナス,ユーモラスな動きのオブジェや結構えげつない趣味のものもあり,もう,おっさん一人で大爆笑ですよ(爆)。

これって一昔前,地方のリゾート地なんかによくあった「秘宝館」のノリですよね。帰国してからネット上でいろいろ調べてみたら,韓国の済州島にも同じ名前の「愛の園」があり,そこの石像がグアムの愛の園の石像とそっくり。タロフォフォの滝のこの施設の経営者は韓国の方らしく,そのつながりなのかもしれませんね。ただ,済州島のラブ・ランドは2004年オープンとのことですから,ここのラブ・ランドも案外新しいものなのでしょう。


・・・・・・

横井さんや小野田さん,南の島で散った多くの男達のことを思ってすごくシリアスな気分になっていたのが,この愛の園のおかげで完全にぶっ飛んでしまいました(笑)。

しかし,ニヤケ顔のまま,またミニバンのハンドルを握り,島の外周道路をぼちぼち北上していると,愛の園やひなびたミニ遊園地の猥雑な印象と,横井さんや小野田さんが生き続けたそのエネルギーが一緒になって一つの声になるのを感じました。

生きろ」と。

「死に急いじゃいかん。生きろ。とにかく生きろ。」


人類は猿から大して進化していない,というのがおとーさんの持論です。いや別におとーさんのオリジナルな考えでもないけど。ヒトと猿はゲノム(遺伝子)的にもほとんど同じ。やってる行動もよく見たら猿と大して変わらん...でしょ?

戦争は愚かだ,という人もいますが,戦争が愚かなんではなくて,人類が元々愚かなんですよ。

人類が「国」という単位でモノを考えるのをやめない限り,きっと戦争が止むことはないでしょう。そして戦争は,ヒトの愚かでネガティブな,でも本質的な面を極端な形で現実化しているだけ。暴力,攻撃,憎悪,恐怖,支配,性...普段はそれなりに抑制されているヒトの本能が戦場では露骨にむき出しになります。

日本人だけは大丈夫,日本人だけは戦場で悪いことはしない...よくそういうこと言う人いるけど,んなことあり得ないのは日々のニュースを見てれば分かること。おバカな日本人,いっぱいいるでしょ。あ,自分のことか(笑)。


単純な反戦論を唱えるつもりはありません。日本が本当に戦争に巻き込まれたら,自ら武器をとって戦う,と言いましたよね。でも,戦争を賛美するつもりも,もちろんありません。

戦い急ぐことも死に急ぐことです。

戦えば多くの死者が出ます。それは間違いないことです。

どうしても戦わないとしょうがない時もあるでしょう。でもその時までは戦い急がないこと。

戦い急ぐな。死に急ぐな。生きて自分の日々の任務を全うせよ。

自然にお迎えが来るまでは,生きろ


島の北東部は日本軍が最後に追い詰められ力尽きた激戦の地です。平和記念慰霊公園がありいろいろな資料が展示してありますが,見てると辛くなるような物も多くあります。そしてそこからちょっと北に行くと広大な敷地に米軍基地が広がっています。まさに勝者と敗者の明暗がくっきり分かれています。そりゃ,こんなヤツらと戦争したら勝てないでしょう...当たり前じゃん...


島をぐるーっと1周してきて,最後に立ち寄ったのは,タモン湾の北側に位置する「恋人岬」。グアム観光の定番スポットの一つです。



※恋人岬からホテルの立ち並ぶタモン湾を臨む定番の構図


スペイン統治の時代にスペイン総督の強引な求婚を断って恋人と共に身を投げたチャモロの娘の伝説が伝わる岬ですが,サンゴ礁の海からいきなり123mもの断崖絶壁で立ち上がる岬の展望台から下を眺めるとひゅうう〜んと○玉が縮み上がります。

ここは縁結びのスポットとしても有名。日本人のカップルが主でしょうが,二人の名前を書いたプレートを小さい南京錠でそこいらにびっしりぶら下げてます。こうやって願掛けしたカップルの,さて何割がゴールインまでたどり着くのかな? さらにその先は...?

冗談で嫁様に「俺らも名前残してく?」と軽く投げかけると,


「アホか,要らんわ!」

と期待通りのレスポンス。ありがとうございます(笑)。


後は嫁様と娘のアウトレット巡りに付き合わされ(お前ら日本でもしょっちゅうアウトレット行っとるやないか),ホテルに戻ったらもう辺りは真っ暗。

レンタカーはホテルの駐車場で翌朝返却なのでそのまま普通に駐車して,ホテル内の昨夜とは別のレストランで食事して早々に部屋に引き上げ,寝床に就きます。

クルマと海と戦争とサバイバルと愛と性の(笑)長い1日が暗闇の中に融け込んで行きます。

隣では息子が早速すーすーと寝息を立ててます。

生きろ

口の中でつぶやいてみます。

自分に言い聞かせるように。

息子に言い聞かせるように。


・・・・・・

翌日は朝からすっきりしたお天気。

子供たちと一緒になってプールに,海に,1日水の中で過ごしました。波打ち際をシュノーケリングでぱちゃぱちゃしてても色のキレイな小さな魚をいっぱい見ることができ,大いに目の保養になりました。まあナマコもいっぱいいましたけどね(笑)。でもこの○ンコのように見えるナマコが海水の浄化と透明度の維持に大いに役立ってるそう。やるやん,ナマコ!



※タモン湾のビーチ。すぐ隣がホテルのプール


その次の日,旅の最終日は飛行機の出る夕方までタモンの街をウロウロして過ごします。

そういえば,ホテルのすぐ近くにある水族館にまだ行ってなかった。入ってみましょう。

大きな水槽の中にトンネル状の通路があり,これを巡って行くような構造になってます。水槽内のトンネルの長さは世界1!と書いてありますが,海遊館を見慣れた大阪人にはちょっと物足りない。


ふと見ると水槽の隅にウミガメがへばってます。どうしたのかな?



しかしこのカメさん,よーく見ると...






めっちゃ睨んでます!!

何かものすごい敵意を感じる。こわー。


その時ふと,この水族館からもうちょっと歩いて行った先でほんの1か月ほど前に起こった悲惨な事件のことを思い出しました。

俳優志望の地元の青年がクルマに歩道で突っ込み,さらに刃物を振りかざして無差別に人を傷つけた例の事件です。この事件で3人の日本人観光客が亡くなり,このすぐ近くの事件現場にはたくさんの花が供えられています。おとーさんも,被害者の方々のご冥福を祈りました。

犯人の青年は犯行の動機については未だ口を閉ざしているようで,謎ばかりが残されています。失業や失恋など極めてプライベートな事情があったとも言われていますし,薬物の影響下だったという可能性もささやかれています。

でも確かなのは彼がその瞬間,ものすごい敵意と憎悪に支配されていたということです。

ニュースによると彼は高校を出たところで,高校時代は成績こそ良くないものの自主製作の映画で賞をとったりして地元ではちょっとした人気者だったとか。彼を知る誰もが「そんなことをするヤツじゃない」と絶句したらしい。そんな人間でもこういう事件を起こしてしまうところに人間の恐ろしさがあります。


そういうヤツは異常なんだ,バカなんだ...と切り捨ててしまうのは簡単。

でももしこれが戦時下で,彼が敵国で特攻をかけたのなら,彼は犯罪者ではなく偉大なる英雄ですよ。同じ無差別殺人行為でも,みんなから賞賛されます。

現にこれがあなたの嫌いな国の人たちが多く訪れる観光地で,あなたの嫌いな国の人たちが殺されたのなら,あなた「よくやった!」と言いませんか? あなたの心の中にも敵意や憎悪がないと言い切れますか?


人間は猿から大して進化してません。「言葉」によって覆い隠されてはいますが,人の心理の根底にある動機の多くは動物的なものです。暴力,攻撃,憎悪,恐怖,支配,征服...様々なプリミティブでネガティブで破壊的な感情が人間を衝き動かしています。そして戦争はそれらを端的に現実化するカンバスに過ぎません。

21世紀に人類が克服すべきものは,素粒子とか宇宙の謎や,成人病や癌の病理や,大自然の驚異なんかより,自分たち自身の心の中にあるそういった破壊的な部分なのではないかと強く思います。その克服なくして人類の進化はあり得ない。っつーか,きっと誰も次世紀まで生き残れないよ。




4日間の南の島の旅も終わりです。

最後に飛行機からもう一度見た,ちょっとななめったグアムの水平線。

いろいろなことを考えさせてくれたグアムの水平線。

機窓からその水平線を眺めながら,おとーさんはもう一度,

生きろ

と,つぶやいてみたのでした。







あとがき


重いテーマなので文をまとめるのにだいぶ時間がかかってしまいました。「早よ続き書けや」と催促して下さった方,おまちどうさまでございました(笑)。

戦争や政治,国家などについての考え方は人それぞれです。ここに書いたものはあくまでおとーさん個人の考えなので,読者の方に同意を促すつもりもありませんし,議論を戦わせるつもりもありません(結論は出ませんので)。読み物として読み流していただければ幸いです。

最後に,太平洋戦争中,そして戦後,南の島で孤独に散って行った多くのおっさん,おとーさん,おにーさん達に心から哀悼の意を表したいと思います。おとーさんは今の世で精一杯生きて行きます。



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